経済協力開発機構(OECD)の最近の「生徒の学習到達度調査」(PISA2018)の結果では、再び日本のこどもの「読解力」が低下傾向になりました。デジタル社会を踏まえた読解力が今後の生きる力として必要になって来ているのでしょうか。
目次
最新の経済協力開発機構(OECD)の日本の子供の読解力の結果
最新の経済協力開発機構(OECD)の日本の子供の読解力の結果は、15歳を対象にして、日本の場合参加79カ国中、数学6位、科学5位、読解力15位と読解力だけが際立って低下しています。
かつて、日本の子供の読解力の順位は、ゆとり教育の影響で順位を大幅に落としたことがありました。
3年ごとに行われるPISAのテストで、2003年の調査で日本の読解力の順位が14位に落ち、さらに2006年の15位の後は、2009年8位、2012年4位と持ち直していました。2015年の8位に引き続き、今回15位になりました。
最新の経済協力開発機構(OECD)の日本の子供の読解力低下の原因は何か
この、PISAの読解力テストは、文章や図表などの資料から情報を読み取る論理的思考力が問われています。
ゆとり教育で日本は、順位を落とし、その後ゆとり教育見直しで順位を2012年には4位まで上げています。
そして、2015年から再び低下に転じるのですが、実は、この2015年から、コンピューターを使用する形式に変わりました。
ゆとり教育見直し以降、日本は、その教育方針を継続しているので、今回の読解力低下の主な原因は出題のデジタル化と論理的思考力にありそうです。
生きる力の新たな要素になった「デジタル読解力」
この2015年からのコンピューターを使用する形の読解力テストでは、一定のパソコン操作の能力が必要で、長文を読むとき画面をスクロールさせたり、解答はキーボード入力になるなどの基本的操作が必要となります。
さらに、それに加え2018年からは、「読解力」の定義に「テキストを評価する」という要素がついかされました。
具体的には、電子メール、ブログ、投稿文などのテキストに対し、信憑性を評価したり矛盾を見つけたりすることが課題になっています。
今回PISAの読解力テストの日本の結果が15位と急落したのは、まさに、コンピューターの基本操作から始まり、情報を端末から読み取り、取捨選択できる読解力に日本のこどもが、ついていけていないのが原因でしょう。
生きる力としてのデジタル読解力は必要なのか?
生きる力としてのデジタル読解力は必要なのか?と問われれば今後の社会ではこのデジタル読解力は必須の能力です。
今、現状では、日本の子供は、家庭でも環境が整っている子供が増えたと思いますが、大抵は、動画検索、ゲーム、チャットでの短文のやり取りに限られます。
パソコン操作習熟の点では結構ですが、大切なのは、今のデジタル世界、インターネット環境下での情報収集能力、判断能力です。
つまり、あまりにも溢れすぎた様々な情報から、いかに正しい情報を選び出せるかという能力です。
生きる力としてのデジタル読解力を磨くには何が必要か
2022年度から年次進行で実施される高校の国語の内容が変わります。
文部科学省はPISA調査や全国学力・学習状況調査、社会的な要請などを受け止め、様々な教育改革を進めていますが、今度の国語教科で、「論理国語」「文学国語」新設し選択科目にします。
従来の国語今日教育は、様々な角度から国語の読解力を身に着けていくというもので論説、評論、髄質、小説、エッセイ、詩、など論理的読解力も重要ですが、文学を鑑賞し味わい、親しむことも大切な素養です。
今後選択科目になると、入試を考えて『文学国語』を選ばずに『論理国語』を選ぶ生徒が多くなり、文学作品に触れる機会が少なくなります。
文章は、時に人の心を震わせ、人々をふさわしい考え、適切な方向に導く力を持ちます。
以前別の記事で三国志の蜀の軍師諸葛亮孔明の「出師の表」のことを紹介しましたが、最新の経済協力開発機構(OECD)のPISAの読解力テストを上げるために、日本の子供の教育が偏ってしまっては本末転倒です。
文学に親しむことは、「心の豊かさ」にとっても大事なことです。日本の子供は本を読まない子供が増えました。
結果として、画面に映し出される映像の悪弊で文字から生まれるイマジネーション能力に
も欠ける傾向があります。
学校教育の偏りは一層の今の子供に欠けている部分の育成には逆行します。
生きる力としてのデジタル読解力を磨くにはどんな方法が必要か
現代社会を生きるうえでデジタル読解力は生きる力として必要だと言いました。
ですが今まで私たちが子供たちに養成してきた「読解力」を否定するものでは決してありません。
黒板とチョーク、紙と鉛筆の教育が悪いのではありません。
真の読解力をつけるには、小学生から始めても優に6年間はかかります。
読解力は枝派のスキルではなく、思考力、感じる心、判断力を伴った総合的人間力として、読解力が備わっていきます。
なぜなら国語学習における教材が多くの作品の魂の訴えの凝縮された宝庫だからです。
一方。デジタル読解力は、先ほどの読解力の上に乗せる一つのスキルに過ぎません。
デジタル読解力は大切なスキルですが、だからと言ってそれに特化したような学習方法は、結果的に、子供の可能性をつんでしまうことにもなりかねません。
生きる力としてのデジタル読解力の本質とは何か
今、インターネットの社会では情報が氾濫しています。
従来の、テレビ、雑誌、新聞が媒体の時はある程度、情報の質の劣化にも歯止めがかけられましたが、インターネトの情報は野放し状態です。
では、生きる力としてのデジタル読解力としてどんな能力が必要になるかというと、あふれる情報から、論理的思考で正しい情報を選び出すことです。
これは、今国が国語のカリキュラムを改定して、強化してまで身に着けようとさせている方向性です。間違ってはいません。
でも、もっと大切な能力は、多くの情報から正しい情報を見極める力です。
これは論理的思考力だけでは身に付きません。
社会の現象を洞察する能力や優れた感、直感力を伴う必要があるからです。
意外とも思われるかもしれませんが最後は直観力です。
例を上げます。ある人が、一つのことで民衆を誤った方向に導くとき使うテクニックは、まず、騙そうとする相手に100の情報を伝えたとします。
その中に、99の正しい真理と1つの誤った情報をちりばめます。
もはやその時は99の正しい真理を伝えられ信用しきっている相手は、ちりばめられたたった一つの偽りを信じてしまいます。
この、偽りの一つの情報を信じ込ませるのが、騙そうと企んだ人の本来の目的です。
もちろん偽りの一つの情報に論理的思考では矛盾はありません。
こんなとき、もはや、人間としての総合力でその偽りを見抜かなければなりません。
ネット社会の情報の嵐は、たとえれば情報のジャングルに放り込まれたみたいなもので、この世界を生き抜くためには動物的感が必要となります。
ですから、どうやって、この正しい判断力に至らせる感を働かせる能力を磨くかということが真の生きる力としてのデジタル読解力です。
今回は「生きる力としてのデジタル読解力は必要なのか?」というテーマで、デジタル読解力を切り口に「生きる力」を考えてみました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
なお関連記事「生きる力と「文章読解力」の関係を考え、生きる力を備える子供教育を提案します」もご覧ください。
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