「ねむの木学園」を運営してきた女優、宮城まり子さんが3月21日、死去した。まんが世界昔ばなしに出演、信心厚いクリスチャンでした。実際上の夫は作家の吉行淳之介氏です。宮城まり子さんと吉行淳之介氏との関係、歌手としての活動、田中角栄と宮城まり子さんとのエピソード、生い立ちなど。
目次
宮城まり子のまんが世界昔ばなし
宮城まり子さんは、1976年には、『まんが世界昔ばなし』の声優として名古屋章とともに出演しました。
スタート当初は毎週木曜 19:00 – 19:30だったが、後に、1978年4月5日から毎週水曜 19:30 – 20:00に移行した。一話約12分の2本編成でした。
まんが世界昔ばなしのオープニング「ウバ・ウバ・ウキャキャ」の動画です。
まんが世界昔ばなし OP「ウバ・ウバ・ウキャキャ」
タイトルの通り、世界各地の民話・伝説なども題材としている、グリム童話・アンデルセン童話など、欧米の古典的童話を題材に取ったものも多い。
また、「フランダースの犬」など、通常昔話には含まれない児童文学や、実在の人物の伝記も扱いました。
まんが世界昔ばなし「なし売り仙人」
宮城まり子さんの「ねむの木学園」
宮城まり子さんが、その地位を捨てて福祉事業に専心したのは、57年のとき、雑誌「婦人公論」の取材で知恵おくれの子どもを知ったことがきっかけでした。
宮城まり子さんは、はプロテスタントのクリスチャンといわれています。
1977年に宮城まり子さんは『ねむの木の詩がきこえる』を製作し、1979年、「ねむの木養護学校」を設立しました。
ねむの木学園は、当初静岡県浜岡町(現御前崎市)にありましたが、1997年、施設を同県静岡県掛川市に移し「ねむの木村」を開設しました。
美術館などを併設して独自の障害児教育に取り組むとともに、全国各地で絵画展やコンサートを開いて障害者への理解を訴えてきました。
1975年と1981年に実施された、近畿放送(KBS京都)テレビ番組『宮城まり子のチャリティーテレソン』を通して身体障害者の社会参加を訴えています。
この活動がみとめられて1979年総理大臣表彰されています。
ねむの木の詩がきこえる<宮城まり子監督作品(2)> 映画/DVD予告編
ねむの木学園について
宮城まり子さんと吉行淳之介氏の関係
1994年7月に肝臓がんで死去した作家の吉行淳之介氏は、宮城まり子さんの実際上の夫です。
伴侶として約40年間を過ごし、1999年にはねむの木学園の園内に吉行淳之介文学館も開設しました。
作家吉行淳之介氏とは、都内の互いの自宅で同居して、彼の死までよきパートナー関係でした。
宮城まり子さんと吉行淳之介氏の関係の詳細です。
吉行淳之介氏には、若い頃に結婚した妻の吉行文枝とその間に女の子一人いました。
後ふたりは別居します。
そして、結婚後約10年後に知り合った女優の宮城まり子は生涯に渡り同居した事実上の伴侶となります。
ただ、妻は終生離婚に応じませんでした。
その他にも愛人がいて死去後に大塚英子と高山勝美が名乗り出ています。大塚が『暗室のなかで 吉行淳之介と私が隠れた深い穴』、高山が『特別な他人』で、宮城まり子さんが『淳之介さんのこと』で、そして本妻の文枝が『淳之介の背中』で、それぞれの体験を公表しています。
歌手宮城まり子
宮城まり子さんは、1955年に「ガード下の靴みがき」で歌手デビューしました。
その後、ミュージカル女優などとしても活躍し、テレビドラマ「てんてん娘」や映画
「オンボロ人生」に出演しました。
1958年、日本初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』で声優を務める。
その後、女優業に進出し、1958年、『12月のあいつ』で芸術祭賞、1959年、『まり子自叙伝』でテアトロン賞を受賞しました。
NHK紅白歌合戦にも1954年の第5回から1958年の第9回までと、1960年の第11回から1962年の第13回までの計8回出場しています。
宮城まり子さんの主な楽曲は以下があります。
毒消しゃいらんかね
ガード下の靴みがき
夕刊小僧
さいざんす・マンボ (トニー谷とのデュエット)
ジャワの焼鳥売り
東京やんちゃ娘
恋は陽気にスイングで
手のひらを太陽に(NHK「みんなのうた」)
デビュー曲「「ガード下の靴みがき」 宮城 まり子
宮城まり子/ドレミの歌1962年
さいざんすマンボ トニー谷&宮城まり子
宮城まり子生い立ち
宮城まり子さんは、東京府東京市蒲田区(現:東京都大田区)に2人姉弟の姉として生まれました。
幼くして母と死別してしまいます。
父親の仕事の関係で、小学校3年から大阪に移ります。
歌手になるきっかけは、宮城まり子さんが小学校5年の時、父親が事業で失敗、母親が病死して、そのため小学校卒業と同時に、弟と共に吉本興業に入ります。
そこで、歌謡曲を歌うようになりました。
戦時中の1944年10月、宮城千鶴子の芸名で17歳で大阪花月劇場(吉本興業直営)にて初舞台を踏みます。
その後、自らの一座を率いて九州を巡業し、終戦を迎える。戦後の1948年、父親、弟の八郎と上京、浅草の舞台に立ちます。
翌年、菊田一夫の推薦で日劇の舞台に主役として迎えられる。1950年2月 テイチクから「なやましブギ」でデビュー、ポリドールを経て、ビクター移籍第二弾『あんたほんとに凄いわね』が初ヒットします。
そして、1953年、レコードで歌った『毒消しゃいらんかね』が流行し一躍歌手としてその名が知れ渡りました。
また、信心厚いクリスチャン(プロテスタント)で作家室生犀星にも可愛がられていました。
犀星の見舞いにクリスタルカップを贈ったが、森茉莉に取られてしまったエピソードがあります。
女優「宮城まり子」さんが、自身の随筆集の中の「白い帽子」で女優の「高峰秀子」さんから「まり子がやるといい小説、ある」と犀星の「蜜のあわれ」を紹介された話が書かれています。
また、この中で「宮城まり子」さんは「『私、とてもやってみたい』そう思った。」と書いています。さらに、「別の女優さんがテレビで『蜜のあわれ』をやってしまい」との興味深い話も。
「楽屋の窓から」宮城まり子 著講談社刊
昭和49年11月20日発行
首相「田中角栄」と宮城まり子さんとのエピソード
生涯を障害者のために捧げた宮城まり子さんと時の首相田中角栄とのエピソードを紹介します。
女優・歌手の宮城まり子さんが障害を持つ子どもたちの養護施設「ねむの木学園」を設立したのは、1968年のことでした。
徒手空拳で始めた学園運営は数年後、すぐ壁に突き当たりました。
当時、日本の養護施設で教育を受ける予算がついていたのは、小・中学校の年齢の子どもまでであって、高校進学のための費用は認められていませんでした。
このままでは、中学を卒業する年齢になった子どもたちが、路頭に迷ってしまう。
悩んだ末、意を決した宮城さんは、官邸に直接電話をしました。
ときは1972年9月。総理大臣は、就任間もない田中角栄氏でした。
「宮城まり子です。 総理大臣にお会いしてお話したいことがあるのですが…」
1950年代から60年代にかけ、紅白歌合戦にも8度出場したことがある有名な歌手からの電話です。驚いた秘書官は、こう応対しました。
「今から30分後、官邸にいらしてください。 ただ時間は取れません。10分ほどです」
宮城さんは官邸へ駆けつけ、部屋に入ってきた角栄氏に切々と語りました。
「田中さん、あなたは総理大臣ですから、 何でも知らなくてはなりません」
「どんなことかね」
「日本では両親がいなかったり、貧しくて生活できない子の 面倒をみているところを養護施設といいます。そこには素晴らしい頭脳を持った子もいます」
せっかちな角さんですが、黙って話を聞いていました。
「そこに高校進学の予算をつけていただきたいのです。 おやつも……1カ月でリンゴ1個分ぐらいですって。 いくら頭が良くても中学から大学へは行けません。
日本が豊かになってきているのだから、 どうか予算をいただけないでしょうか」
宮城さんの頬に涙が伝いました。
「そうかね。そんなことがあるのかね」「はい」「私は知らなかった。 そういうことまで耳に入らなかった。 知ってなくちゃいけないね」
「はい」
「今すぐ返事をしたいが、それは無理なので、 正月過ぎまで待ってほしい。 必ず返事をする」翌年1月、宮城さんは二階堂進官房長官に呼ばれました。
「遅くなりましたが、日本中のすべての養護施設の子が 高校教育を受ける予算がつきました」
宮城さんの脳裏に、4か月前に会った田中角栄氏の顔が浮かびました。尋常高等小学校卒という学歴ながら、一国の宰相に登りつめた角さんは、誰よりも「教育」の大切さを訴え続けた政治家でした。
宮城さんは、かつて「越後の毒消し」の行商女性をテーマとした「毒消しゃいらんかね」という歌を歌い、この歌で紅白歌合戦にも初出場しています。
角さんは、あるいは宮城さんを新潟出身者と思っていたかもしれません。
しかし、角さんは一切そういう話をせずに陳情を受け付け、それに応えて見せたのです。
信念の政治家の真骨頂です。参考本:田中角栄「別冊宝島」(宝島社)
引用:https://yuru2club.com/wp/?p=6840
以上、田中角栄と宮城まり子さんのエピソードです。
まとめ
今回は、「宮城まり子のまんが世界昔ばなし、ねむの木学園運営、吉行淳之介氏との関係、生い立ち」というテーマでお送りしました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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