白木利周さんが、4月26日、肝細胞がんのため死去。享年78歳。1995年の阪神大震災で長男健介さん(当時21歳)を亡くした。NPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」(HANDS)の設立発起人になり、2011~14年に追悼行事「1・17のつどい」の実行委員長を務めました。白木利周さんの活動や業績、NPO法人 阪神淡路大震災117希望の灯り「HANDS」の活動内容について。
目次
元震災NPO理事長の白木利周さん死去
NPO法人 阪神淡路大震災117希望の灯り(略称HANDS)の初代の理事長をつとめるなど、震災遺族のつながりに尽力した白木利周さんが4月26日、肝細胞癌のため死去しました。78歳。
葬儀は近親者で営む。喪主は長女かおりさん。
通夜は4月27日(月)17時から、告別式:4月28日(火)12時から。
場所は、神戸市北区唐櫃台4丁目37?3の神戸祭典北神戸支店 唐櫃会館。
白木利周さんの活動(業績)
白木利周さんは、1995年1月17日の阪神淡路大震災の際、東灘区御影町郡家大倉の自宅が被災。
経済学部Ⅱ課程3年だった長男・健介さん(当時21歳)を亡くしました。
2002年から2年間、NPO法人 阪神淡路大震災117希望の灯り(略称HANDS)の初代の理事長つとめるなど、2011年ごろまで中心メンバーの一人でした。
「HANDS」の活動内容
白木利周さんが発起人となり活動されたHANDSの活動を紹介します。
海を越え台湾でも被災の輪を広げています。
1995年の阪神・淡路大震災の犠牲者を悼むため、神戸市でともし続けているガス灯「1・17希望の灯(あか)り」が、初めて海外に渡りました。
台湾大地震から20年を機に、神戸の市民団体が現地の被災地に届けました。
鎮魂と復興への祈りを込めた灯火は今後、台湾でも神戸と同様に常設されることが決まりました。
台湾震災から、20年後の追悼式
台湾大地震が発生したのは1999年9月21日。20年後の同じ日、震源に近い台湾中部の南投県の桃米村で追悼式があり、台湾の陳建仁副総統や地元関係者、住民、神戸や東北など日本の被災地の市民団体メンバーら数百人が集まりました。
参加者たちが見守る中、NPO法人「阪神淡路大震災 1・17希望の灯り」(HANDS)の藤本真一代表が、希望の灯りを台湾側の市民団体メンバーに手渡しました。
火は20本ほどのろうそくに移されて会場脇の池に浮かべられ、水面を照らしました。
そして台湾で、6番目の常設灯をともしました。
東日本大震災の被災地にも被災の輪を広げる。
HANDSは神戸市の東遊園地にともし続けている希望の灯りのガス灯を管理し、毎年1月17日の「1・17のつどい」の運営も担っています。
被災経験の語り継ぎや被災地同士の連携にも力を入れ、灯りは東日本大震災の被災地など国内各地に分けられてきました。
常設灯は現在、東日本大震災の被災地など国内5カ所にあります。
東京パラリンピックの聖火に「1.17希望の灯り」「3.11希望の灯り」から採火
そして、東京パラリンピックの聖火に「1.17希望の灯り」「3.11希望の灯り」から採火されることになりました。
パラリンピックの聖火はギリシャで火を採るオリンピックとは異なり、全国47都道府県の700以上の市区町村で採火され、東京で1つに集められることになっています。
阪神淡路大震災1.17希望の灯り設立総会での挨拶白木利周さんの挨拶
特定非営利活動法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」の設立総会での白木利周さんの理事長としての挨拶です。
「 震災から培われた大切な「優しさ・思いやり・仲間・絆・心」を風化させることなく、世代・場所を越え、多くの人々に伝えていくことは、生き残された私たちの使命です。
多くの方々のそれぞれの想いを、明日につなげる希望の灯りとして、活動に結び付けていくことが大切だとの思いから、NPO法人を設立しました。
このNPO法人は、遺族の方々を中心とした震災の体験・経験の語りべ・被災(自然災害、事故、犯罪)により傷つかれた方々へ同じ気持ちで接する「心の癒し」・震災によって生まれた「生きる知恵」を伝えていくこと・災害に対する「支えあう仕組みづくり」・アート・スポーツを通じて震災文化を育み伝えていくこと、などの活動の柱を持っています。
被災された方々は、まだまだ自分の殻に閉じこもったままで、表に出ることを躊躇されているのではないでしょうか。
このNPOを、思い切って外に出ることをお手伝いできる場所、心のケアを大切にした場所、また気楽に集まっていただける場所にできればと考えております。
どうぞ、楽な気持ちでご参加ください。そして、「1.17希望の灯り」がいつまでも私たちの心に灯り続けるように、ともに手を取り合って、がんばってゆきましょう。」
白木利周さんのNPO法人の活動に入った経緯
ここ1、2年体調を崩し自宅療養中の白木利周さんが、2019年12月30日には、神戸大メディア研のインタビューに自宅で応じ、慰霊碑を巡る「モニュメント交流ウォーク」で他の震災遺族と巡り合ったことから、NPO法人の活動に入った経緯を語っています。
以下が内容です。
神戸大生には、「震災があって多くの人が亡くなったことを、記憶に残してほしい。大学の慰霊碑も、『これなんだろう?』というかたちで知ることができる。伝わっていく。話をしていただきたい」とメッセージを残していました。
息子に健介さんについて、「そろそろしんどくなってきたからそっちへ連れて行って欲しいな、っていう声がけはするんですけどね。
でも返って来る言葉は、『親父、まだまだするべきことはあるよ』です」とも話していた。
震災25年を迎えた今年1月17日には神戸大の六甲台キャンパスの献花式に姿を見せ、「(体調を崩していたが)1月17日までには復活するぞと思って来た。
ここ(慰霊碑)に来るとほかのご遺族の方に会える。
みんな仲間で一人じゃないんだなって思える」とコメントをしていらっしゃいました。
まとめ
今回は、「白木利周さん死去、活動(業績)。「HANDS」の活動内容について」というテーマでお送りしました。
白木利周さんのご冥福をお祈りいたします。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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