ロッテのドラフト1位・佐々木朗が3月4日、全国の少年少女へメッセージを送りました。新型コロナウイルスの影響で学校が休校で学校に行けない、野球をできない子供たちに「自らの頭で考えることの重要性」を投げかけました。「やることが与えられない時に自分で考えてやることが求められる。その方が野球だったり勉強だったり、伸びると思う。時間をうまく活用してほしい」「自分ができなくても今の時代、いろいろなものを見られる。見て学ぶというのも必要」と少年少女へメッセージを送りました。その言葉の裏には自らが乗り越えた大きな体験です。小3時に東日本大震災で被災し、その時父、祖父、祖母を亡くし中学では腰を疲労骨折。練習できないつらも味わった。高校は公立で、私立の強豪校のように施設面などの環境は恵まれていない。その中で全体練習は短く自主練習に多くを費やした。「自分を理解しないとそういう時間をうまく使えない。時間をうまく使えたから伸びた」。自分を見つめ、足りないものを補う努力をしたからこそ最速163キロを出すまで成長を遂げた。こんな、今18歳の佐々木朗希選手の言葉はどれほど大きく、全国の少年少女への励ましのメッセージとして響くか計り知れません。佐々木朗希選手にとっての東北大震災の苦難やかなわなかった甲子園出場への夢について今、改めて紹介します。
目次
佐々木朗希選手の「少年少女へメッセージ」
ロッテのドラフト1位・佐々木朗が3月4日、全国の少年少女へメッセージを送りました。
新型コロナウイルスの影響で学校が休校で学校に行けない、野球をできない子供たちに「自らの頭で考えることの重要性」を投げかけました。
「やることが与えられない時に自分で考えてやることが求められる。その方が野球だったり勉強だったり、伸びると思う。時間をうまく活用してほしい」「自分ができなくても今の時代、いろいろなものを見られる。見て学ぶというのも必要」
というメッセージです。
このメッセージの裏には、佐々木朗希選手の東日本大震災、中学では腰を疲労骨折。高校は公立で、私立の強豪校のように施設面などの環境は恵まれていないなかを乗り越えてきた自らの経験からくる重みがあります。
これほど、全国の少年少女の心に響くメッセージは無いでしょう。
佐々木朗希選手にとっての東北大震災の苦難
2011年3月、東日本沿岸を襲った大津波は、三陸にも数え切れないほどの、深い悲しみ
をもたらしました。
陸前高田で7人家族で平和に暮らしていた佐々木家も例外ではありませんでした。
3058日前、東日本沿岸を襲った大津波は、三陸にも数え切れないほどの、深い悲しみ
をもたらした。
陸前高田で7人家族で平和に暮らしていた佐々木家にも。
佐々木朗希選手の母陽子さんは仕事で隣町の大船渡にいたが、2011年の3月11日のあの日、浸水で立ち往生を余儀なくされてしまいました。
母陽子さんは夜は、子供や家族のことで不安の夜を明かし、翌朝5時には車で陸前高田へ出発します。普段は30分なのに3時間近くかかりました。
一方、佐々木朗希選手ウを含む3兄弟は、高台の施設に避難し、一夜を明かしていました。
翌日の母との再会に泣きあいました。
佐々木朗希選手選手の家族は7人。
まだ、父、祖父、祖母とは会えていません。
7人がそろわない不安な時を5日間あまり、大船渡の親戚の家で送りました。
自宅は、津波で流されてしまっていました。
2011年3月16日、電話が鳴った。母陽子さんが電話をとると「見つかりました」の知らせ。
電話口の言葉を知った当時9歳だった朗希少年が「見つかった!?」と目を見開いて母陽子さんに叫びました。
大人ならすぐに悟れる「見つかりました」の真意。
当時9歳の朗希には、7文字の深さを察することはまだ難しかったのです。
いつもニコニコと朗らかで、3兄弟を愛してくれた朗希少年の父功太さんが亡くなった知らせだったのです。父功太さんは享年37歳でした。
功太さんの母である朗希少年の祖母もその後、見つかりました。
朗希少年の祖父はいまだ行方不明のままです。
自宅は流されて、仮設住宅の抽選にもなかなか当たりませんでした。
そんな中でも、佐々木朗希選手の残された一家4人は励ましあい、頑張って苦難を乗り越えました。3人兄弟の長男の琉希さんが、父親代わりに弟2人の面倒を見てくれました。
家族にとってこの8年強の苦労は想像を絶するものだったでしょう。
そして、佐々木朗希選手はプロ野球選手になる夢をかなえました。
佐々木朗希選手の甲子園の夢かなわず
大船渡高校の佐々木朗希投手(3年)は「仲間とともに」と願った甲子園に届きませんでした。
東日本大震災が起きた2011年3月11日の日以来必死に追いかけてきた夢でもありました。
負けた、岩手県大会の決勝戦・花巻東対大船渡で、最速163キロを誇るエース・佐々木朗希投手は登板しませんでした。
大船渡高校は、決勝戦で敗戦。
試合後「甲子園に行きたっちゃねーのか!」と大船渡のスタンドから怒号の声が響きました。
大船渡高校の、国保陽平監督は、21日の盛岡四戦で194球、24日の準決勝の一関工戦でも129球を投げていた佐々木投手の状態を考慮し、故障を防ぐために登板回避を決断したと話します。
佐々木投手は、9日間で試合数4戦投球数435球。
7月16日の2回戦から24日の準決勝までの9日間で、これだけの投球をすでにしていました。確かに、プロ選手でもこれだけ体を酷使すれば故障の危険はあるかもしれません。
試合後のインタビューで佐々木投手が登板しなかったことについてどう思うかとの質問には
しばらく長い間沈黙した後に「監督の判断なので……」と答えました。
投げられる感覚はあったのか、という問いには「はい」と答えている。
決勝進出を果たした前日の会見では「ここで負けたら1回戦で負けるのと同じ」と佐々木投手は語っていました。
大船渡高校の、国保陽平監督は、佐々木朗希投手を投げさせなかった理由について説明しています。
「故障を防ぐためです。連投で、暑いこともあって。投げたら壊れる、投げても壊れないというのは未来なので知ることはできないんですけど、勝てば甲子園という素晴らしい舞台が待っているのはわかっていたんですけど、決勝という重圧のかかる場面で、3年間の中で一番壊れる可能性が高いのかなと思いました。投げなさいと言ったら投げたと思うのですが、私には決断できませんでした」
前日の準決勝・一関工戦で9回、129球を投げた佐々木にこの日の朝、登板させ
ないつもりだと伝えた。すると笑顔で「わかりました」と返してきたという。
そして、大船渡は6回までに9点を奪われ、2-12という大差で敗れてしまいます。
佐々木朗希投手抜きでの勝算について問われると監督はこう答えました。
「30-29というような。そこに期待していた笑顔だったのかなと、可能性はある」
大船渡高校が30点という得点をとることは現実的ではありません。
今大会の第1シード、花巻東高校を相手に佐々木が投げなければ勝てないことも監督は覚悟していたと思われます。
大船渡高校の、国保陽平監督は、甲子園に出る確率を下げてでも、ひとつの才能を守ることを選んだのです。
目の前の一瞬よりも佐々木朗希選手の未来、大きな可能性を選んだ決断でした。
佐々木朗希選手心境「今、あることが当たり前でない」
東日本大震災の被災地岩手出身で、父と祖父、祖母を失った佐々木朗希選手は、震災からちょうど9年目の3月11日心境を語った。「今あるものが一瞬でなくなってしまう。そういった人たちの分も一生懸命、生きていかなくてはいけない」と震災を少年期に体験した教訓を語っていました。
まとめ
今回は、「佐々木朗希「少年少女へメッセージ」東日本大震災を乗り越えつかんだ夢」というテーマでお送りしました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。