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歌手の弘田三枝子死去、プロフィールや代表曲紹介!

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歌手の弘田三枝子さんが、7月21日心不全で死去しました。享年73歳。プロフィールや曲を紹介。

弘田三枝子

弘田三枝子

 

目次

弘田三枝子死去、プロフィール

弘田三枝子

弘田三枝子

 

歌手の弘田三枝子(本名・竹永三枝子)さんが21日午後10時31分、心不全のため死去しました。73歳でした。

 

弘田三枝子さんは20日に自宅で倒れ千葉県内の病院に搬送され、倒れる前日までは元気に過ごしていたということです。

弘田さんは1961年、14歳で「子供ぢゃないの」でデビュー。その後「ヴァケーション」「想い出の冬休み」「悲しきハート」などカバーポップスでヒット曲を連発した。1962年に『第13回NHK紅白歌合戦』に出場し、9年連続で出場。

 

その後も、「夢みるシャンソン人形」、アニメ『ジャングル大帝』の「レオのうた」、「人形の家」など大ヒットを連発した。などカバー曲のヒットを連発し“パンチのミコちゃん”を呼ばれ愛された。

 

その後、週に10本以上のテレビ番組にレギュラー出演するなど国民的な人気を博し、1965年には日本人歌手初の「ニューポード・ジャズ・フェスティバル」に出演した。桑田佳祐など多くのミュージシャンに影響を与えました。

 

歌唱力とパンチの効いた歌声で、洋楽をカバーした和製ポップスを歌ってヒットをさせ、和製R&B娘とも評された。

 

今年はデビュー60周年で記念曲やコンサートなどを予定していたが、新型コロナウイルスの影響で延期されていた。

弘田三枝子のプロフィール

弘田三枝子

弘田三枝子

 

世田谷区立三宿小学校の生徒だった頃から劇団こまどりに入り、また進駐軍のキャンプで歌っていたともいい、駒沢学園女子中学校の1年生の頃からは本格的に進駐軍キャンプでポップスやジャズなどを歌っていた。

1961年に東芝音楽工業から、14歳で「和製ブレンダ・リー」のキャッチフレーズをうたい「子供ぢゃないの」(ヘレン・シャピロのカバー)でデビュー。

 

翌1962年には各社競作で出された「ヴァケイション」(コニー・フランシスのカバー)が20万枚のヒットを記録する。

他に青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子らも同曲をカバーした。青山ミチ版は3万枚の小ヒットだった。

村田久夫は「西洋のリズム・メロディラインと日本語の言語としての伝達能力の問題を克服する手段として、英語っぽい日本語を考え出したのは弘田三枝子」と指摘している。

弘田三枝子

弘田三枝子

 

1964年10月に日本コロムビアへ移籍。1965年7月には、日本人歌手として初めて、アメリカ合衆国の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に出演した。

 

3日目の夜、降雨による中断の後、ビリー・テイラー・トリオにトニー・スコットが加わったカルテットをバックに「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス (Just One of Those Things)」、「ミスティ (Misty)」、「ムーン・リバー (Moon River)」、「マック・ザ・ナイフ (Mack the Knife)」と、「三階節」のジャズ編曲版を歌った。

 

1968年5月30日には、リズム・アンド・ブルースのコンサートをサンケイホールにて開き、ライブアルバムを制作した。

 

「人形の家」以降彼女は、60年代前半あたりまでは好調を保っていたが、筒美京平らが曲を提供したにもかかわらず、それ以後のGSブームなどには完全に乗り遅れてしまった。

 

60年代初頭のアメリカン・ポップスやオールディーズを歌う歌手という古いイメージを払拭し、カムバックを果たしたのが川口真作曲の「人形の家」である。

弘田三枝子

弘田三枝子

 

弘田は1969年10月20日、「人形の家」はオリコン・チャートで首位となり第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。

 

カムバックに際し、弘田はダイエットによる大幅な減量をしていたが、この経験も踏まえ1970年に『ミコのカロリーBOOK』を出版した。

 

その後、渡米し、1977年にはニューヨークでアルバム『Mieko In New York』を自主制作、さらに当地で結婚、娘を出産して母となったが、1979年9月に帰国して歌手活動を再開し、1980年には自ら作曲したシングル「ミスターシャドー」を東芝EMIから発売した。

 

1983年にはキングレコードへ移籍し、アルバム『TOUCH OF BREEZE』やシングル「愛のNOKORIGA」などを発表する。

 

2006年にレコードデビュー45周年を迎え、「弘田三枝子じゃずこれくしょん」CD8枚組BOXを発売。

弘田三枝子の代表曲

弘田三枝子の代表曲を紹介。

デビュー曲の「子供ぢゃないの」


ー       弘田三枝子 子供じゃないの

 

コニー・フランシスのカバー「ヴァケイション」


ー      弘田三枝子 ヴァケイション

「ビーマイベイビー」


ー      ビーマイベイビー/弘田三枝子

「SAD HEART 」


ー   SAD HEART – MIEKO HIROTA “MIKO”

 

「悲しきハート」


63’「悲しきハート」 弘田三枝子 「キューティ・パイ」伊東ゆかり 「女王蜂」園まり 「バイ・バイ・バーディ」中尾ミエ

「 悲しき片想い」


ー       弘田三枝子 悲しき片想い

「 踊りあかして」


ー     弘田三枝子 踊りあかして

 

人形の家


ー       弘田三枝子 人形の家

レナウンのCMの「ワンサカ娘」


ー      ワンサカ娘 / 弘田三枝子

 

 

まとめ

今回は「歌手の弘田三枝子死去、プロフィールや代表曲紹介!」というテーマでお送りしました。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

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