黒タイツに泥棒ひげがトレードマークだった、昭和プロレス史の名プロレスラー、ラッシャー木村さん(本名・木村政雄)が、腎不全による誤嚥性(ごえんせい)肺炎のため68歳で死去した日が2010年の5月24日だった。
2か月後の6月26日にプロレスリング・ノア主催による「お別れの会」では、現役時代に共闘したアニマル浜口氏が涙の弔辞。「プロレス界はあなたを忘れることはありません」と泣き叫び、遺影に向かって「気合だ!」を連呼して別れを告げた。
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ラッシャープロフィール
ラッシャーさんは大相撲の宮城野部屋に入門し、初土俵は58年3月場所。「木ノ村」のしこ名で、最高位は幕下20枚目だったが、64年9月場所後に部屋から脱走して廃業。東京五輪開催中の同年10月に、力道山率いる日本プロレスに入団しマット界を暴れ回った。
その名を一気にとどろかせたのが、金網デスマッチだ。国際プロレスでエースの看板を背負っていた1970年に初めて日本人として挑んで勝利(対ドクター・デス)。外国選手に無敵の「金網の鬼」と恐れられた。
身長:185cm – 187cm
体重:125kg(全盛時)
誕生日:1941年6月30日
死亡日:2010年5月24日(68歳没)
出身地:北海道中川郡中川町
佐久中学校を経て北海道天塩高等学校に進学、ポール牧と同級生でした。
夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして、高校を中退して大相撲の宮城野部屋に入門。
1958年3月場所にて、木ノ村(きのむら)の四股名で初土俵を踏む。幕下20枚目まで昇進したが「十両に上がったら辞められなくなる」という理由で1964年9月場所限りで、親方(元横綱・吉葉山)の慰留を振り切り脱走して廃業した。
大相撲廃業後、1964年10月に日本プロレスに入団。
1965年4月2日、リキ・スポーツパレスに於いて、高崎山猿吉戦でデビューする。
豊登の付き人をしていた関係から、翌1966年に豊登が興した東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍
。1969年1月1日にリングネームをラッシャー木村に改名。
同年4月20日、サンダー杉山と組んでスタン・スタージャック&タンク・モーガンを破り、TWWA世界タッグ王座を獲得、初戴冠を果たす。
以降、ドリー・ディクソン&モーガン、ジャン・ウィルキンス&チーフ・ダニー・リトルベア、スタン・ザ・ムース&ニキタ・マルコビッチなどのチームと防衛戦を行った後、8月に王座を返上して渡米した。
2004年7月の現役引退まで約39年間で7団体(日プロ→東京プロ→国際→新日本→第1次UWF→全日本→ノア)を渡り歩いたが、ファンの記憶に色濃く残るのが、ガラガラにかすれた声で、ジャイアント馬場さんをいじりたおす、ユニークなマイクパフォーマンスだった。
ラッシャー木村、迷言集。志村けんも登場。
ー ラッシャー木村 伝説の「こんばんは」
ラッシャー木村、迷言集。志村けんも登場。
ー【志村けん】ラッシャー木村のマイクパフォーマンス
ー ラッシャー木村のマイクパフォーマンス 総集編
ラッシャー木村、超偉人伝説
ラッシャー木村たけし・さんまの超偉人伝説 。
ー たけし・さんまの超偉人伝説 ラッシャー木村
ラッシャー木村馬場と乱闘
ラッシャー木村は味方のジャイアント馬場をラリアットで倒します。
ー 仲間割れ(ジャイアント馬場&ラッシャー木村
まとめ
今回は、「ラッシャー木村、迷言集、超偉人伝説。馬場と乱闘、プロフィール。」というテーマでお送りしました。
最後までご覧いただきありがとうございました。