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ゴダイゴの浅野孝已さん死去、ギタリスト歴、実績など。

ゴダイゴ・浅野孝已さん死去しました。68歳でした。浅野さんは16歳でプロ・ギタリストとしてのキャリアをスタート。天才少年ギタリストとして近代日本ロック史に刻まれる存在となり、 以来、第一線で活躍し、現在もゴダイゴでの活動と並行して、自身のバンド「T.A.G.C TOKYO」を率いていました。

浅野孝已

目次

ゴダイゴ・浅野孝已さん死去

ゴダイゴ・浅野孝已さんが5月12日に死去しました。 午前10時、都内の自宅で、家族が心肺停止の状態の浅野さんを発見、救急搬送されたが、死亡が確認されたという。68歳でした。

9日にFBでコロナ終息願う投稿をしたいたばかり。

9日にはフェイスブックで「笑顔が増えてバージョンアップしています。是非ご覧下さい。」と新型コロナウイルス終息を願う投稿をアップしています。

 

浅野孝已FB

 

浅野孝已さんのギタリスト歴

浅野孝已さんは、 小学校5年生からギターを始めた。

私立聖橋中学校に入学後、通学路で同じ聖橋学園の高等部である聖橋高校に通う萩原健一と知り合う。

萩原健一が所属する「ザ・テンプターズ」のライブを見に行ったことがきっかけで、ザ・テンプターズで使わなくなった楽器をもらって大口広司らとともに「ジュニア・テンプターズ」が結成された。

ザ・テンプターズがレギュラー出演していたディスコ等に出演するようになり、浅野は中学2年生にしてセミプロのギタリストとして活動を始めることとなった。

浅野孝已さん

1967年、大口広司がザ・テンプターズに加入したためにジュニア・テンプターズは解散。

学校の先輩に「モップス」の星勝がいた関係で「ジュニア・モップス」を結成。浅野は高校を退めて毎夜ディスコに出演するようになり、16歳でプロのギタリストとなった。

ミッキー吉野は「ザ・ゴールデン・カップス」時代から「エム」に在籍していた浅野に一目置いており、米国留学から帰国してすぐに浅野をバンドに誘った。浅野はチャコとヘルス・エンジェルに在籍中で、契約期間が2年であったため契約が切れるまで待って欲しいと答え、契約満了後にミッキー吉野グループに合流することとなった。

浅野合流前からミッキー吉野グループはタケカワユキヒデのソロコンサートのバックバンドを務めていた。当初は浅野とは別のギタリストを擁していたが、渋谷公会堂で開催されたツアーの最終日に突如浅野が参加することとなった。浅野はたった1日で20曲を超える演目をすべて習得した。

 

浅野孝已さん

ギターシンセサイザーを日本で最初にレコーディングに使用した。

グレコなどとのギターなどの開発に参加。

ゴダイゴ時代は開発に深く関わったGO-IIIという機種(本人所有のものは市販と仕様が異なるPrototype品)を好んで使っていた。唐草インレイが指板に入っており非常に美しい。

ガンダーラなどでは12弦のWネックを使うこともあった。

ゴダイゴ

市販されていたGO-IIIは最上位モデルで15万円ほどだったが、大ヒットモデルとなった。

現在では製造されていない。自身が持っているGO-IIIの状態がよくないため、程度の良いGO-IIIを探していることを自身のホームページで語っている。また、最近ではPaul Reed Smithの305を所有している。

浅野孝已さん

 

浅野孝已さんの実績

浅野孝已さんは、ゴダイゴのギタリストとして活躍したほか、プロデュースでは、岡本真夜「tomorrow」をプロデュースしました。

また自身のバンド「T.A.G.C TOKYO」を率いていました。

タイトー社にてゲーム音楽の作曲『チェイスHQ』『スーパーマン』『エンフォース』『S.C.I.』『バリバリ伝説』を担当。

1998年 には、 スティーブ・フォックス、Kenneth Makuakane とバンド『トロピカル・ポップ・オーケストラ』(Tropical Pop Orchestra、TPO)を結成しました。

まとめ

今回は「ゴダイゴの浅野孝已さん死去、ギタリスト歴」というテーマでお送りしました。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

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