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生きる力として、「考える力」の重要性
考える力が、テーマです。人間は、考えることを停止してしまえば「人間らしく」生きることはできません。
考える力が備わってこそ、物事の「真理」、つまり本当のことを見極め、正しい判断力をおこない、意義ある人生を生きることができます。さらに、言ってしまえば現在の経済至上社会においては、他人にだまされたり、うまく利用されてしまうこともありえます。
人間として、生きていく上では、考える力は「生きる力の」の根本的な能力で最重要な能力だと思います。
最新の国の指導要領の指針でも重要な要素になっている
最新の、2019年3月に公開された、国の新指要領の指針でも、生きる力を育む教育の一環として、以下のように表現しています。
『基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、表現することにより、さまざまな問題に積極的に対応し、解決する力』を育てる。とあります。
さらに、その詳細説明として、『「知識基盤社会」の中での「生きる力」として、これからの社会を生きる子どもたちは、自ら課題を発見し、解決する力、コミュニケーション能力、物事を多様な観点から考察する力(クリティカルシンキング)、様々な情報を取捨選択できる力などが求められる』と表記しています。
国も、「考える力」に関しては重要な位置づけに置いていることがわかります。
授業の形も、「アクティブラーニング」ができる授業にすることが示されています。
「一億総白痴化」現象!
かつて、テレビ放送が始まり半年くらいして、作家の大宅壮一氏が言った言葉に「一億総白痴化」という言葉がありました。
私が、この言葉を知ったのが、高校生の時でだいぶ後になってからですが、もはや、家にテレビがない家庭は、無いくらいテレビは辺りあえに普及しました。
大宅壮一氏は、テレビの出現を目のあたりにして、この「一億総白痴化」という言葉を作りました。テレビの映像付き情報が、考える力をなくしてしまうことを言ったのです。
当時高校生の私にとって、この、言葉は、大変ショックで、恐ろしくもありました。「日本国民全員が白痴になる?」半信半疑に思いつつも、この言葉を頭に刻み込み、その後、その検証をしてきました。
今日に至るまで、当時の半信半疑は確信になりました。大宅壮一氏の予言はそのとおりになっていきました。
テレビの情報垂れ流し状態が私たちの生活環境を変えてしまいました。
自分の見たい番組を選んでみるのなら、まだしも、家族で食事している間でさえテレビをつけている家庭も少なくありません。
自然、家族での対話も少なくなります。
テレビという映像の魔力は次の段階へ進んでいった。
映像という刺激の大きい情報に浸り、次第に考えることをやめていってしまった、国民の白痴化現象の次は、映像の送りての情報操作が起きてきました。
国民は、テレビで流れる情報は、正しいという先入観が観念化しそこに、一部で、そのテレビ映像による情報操作現象が起きましたが、その時、考えることを停止した視聴者は、すべてを鵜呑みにするようになりました。
その、映像の刷り込みに使う一つのテクニックがサブミニナル効果を使うことです。ナレーションと前後の映像の間に一瞬のフラッシュ映像を入れ込むと、その映像のイメージが潜在意識に直接インプットできます。
これが、企業のCMでその製品のイメージを高めるコマーシャリングの目的で使われるならまだ、問題は少ないですが、時には政治的意図で使われていることもあります。
ですが、本来考える力がしっかり情報の受け手に備わていれば、何も問題にはなりません。
なぜって、だまされることがないからです。
映像のもう一つの弊害が「活字離れ」
話を本筋に戻し、現状の子供たちについて書きます。「考える力」を阻害するものの大きな原因として、「活字離れ」です。
この「活字離れ」は、テレビの出現、そして、まんが雑誌、テレビ媒体のアニメーションの普及も大きいでしょう。
とりわけ、日本のアニメーションのレベルは高く、最高のアミューズメントです。あの、世界的にも最高水準の映像と、脚本を見ればどうも「本の読書」は貧弱に感じます。
もはや、アニメーションは、日本の誇れる文化ですので、批判する気もありませんしさらに発展してもらいたいのですが、結局、テレビにしても漫画(アニメ)にしても、私たちがどう楽しむか、ということです。
つまり、かつて半世紀も前に、大宅壮一氏が警鐘をならしたように、「考える力」を育むことを常に意識していくことだと思います。
「生きる力」として、正しい情報を見極められることが必要!
今の、子供は、私たち、漫画、テレビ時代に生きてきた世代以上に、情報というものに向き合わなくてはなりません。
もはや、テレビの時代から、インターネットの時代になり、今の子供は、能動的に自分の好きなコンテンツ(情報)だけを選んでみることができます。
国の「生きる力」の指針にもある『様々な情報を取捨選択できる力などが求められる』という能力は、必須な能力になるでしょう。
インターネット上の氾濫した情報には、テレビ以上に、あるいはその比ではないくらいの間違った情報が出回っています。
そういう意味では、「考えなくてもなんとか生きられる時代」は終わったのかもしれません。
テレビ、ラジオは、質の低い情報、紛らわしい情報はあっても、ある一定のボーダーラインは、ありました。放送法があり、電波の使用も免許制で、送りての責任も明確にできます。
しかし、インターネットの情報は、もはや、統制は不可能です。情報発信元の責任も追及しずらく、極端にひどい情報も、有意義な情報もまぜこぜです。
だからこそ情報の受け手が、いかに「考える力」をしっかり身に着け適切な」情報を見極めるかが大事になります。
「考える力」は読書をすることで有効に身につきます。
私の塾では、塾生には、繰り返し、「読書」を勧めます。
最初が入塾の面談です。大抵は、母親と生徒本人で入塾の手続きにきますので、「読書」をすることで、すばらしい、将来が、人生がつかめます、と勧めます。
ほとんどの子供は、読書の習慣はないのが実情です。
母親も「嫌いなんです。読書は!」「漫画ならよく読むんですけど!」みたいな調子で、自分の子供の話をしているのに、何か、他人という感じです。
こんな感じで読書にたいして、親も意識がかなり低いんで、読書することのメリットを説明します。
読書さえ、してくれれば、塾はいらない、とまで言います。そして、「読む習慣がつくまで、根気よく勧めてください、そして、本代は惜しまないでください。」といいます。
これほどまでに私が読書をすすめるには、理由があります。
こどもの考える力を養成するには、「読書」が有効かつ不可欠と思うからです。
活字情報は、読者がイメージ作業を行いながら読み進みます。また、解釈にも多様性があります。自然と、考える習慣が身に付きます。
読書を、習慣にしている子供の特徴
読書を習慣化してよくする子供には大きな特徴があります。
一言でいうと「心の厚み」が備わります。「心の厚み」とは、心をいくつかの観点で、分けてみると、例えば、感性の鋭さ、やさしさ、思いやり、情緒性、ユーモアとか、とても上げきれませんが、全体的に育って、備わっています。
物事も見極めるときの多様性もあります。矛盾した現実への適応性も備わります。
よく、最近は友達でも重たい関係より、軽い感じの友達関係が好まれます。普段の会話といえば、アイドル、ファッションとか当たり障りのない関係です。
実際、友人の悩みとか相談されても、されたほうも戸惑います。このような場合も「心の厚み」がある人間は、とまどうことがありません。しっかりした、考える力が備わっているんで、相手に対し、それぞれの状況に応じた対応ができるからです。
私が、読書をして「心の厚み」のある子どもと会話すると、その違いがすぐわかります。
私の話を的確にきいて、私が本当に伝えたいことは、しっかり心に留める能力もあり、それがさらなる成長にもなります。
読書は、必ずしも実際の教科の成績には、比例しませんが、ひとつだけ言える確かなことがあります。
例えば、受験があり、今の自分よりだいぶレベルの高い高校に行きたいと思ったとき、読書いている子供は、がんばる気さえあれば、合格する確率がかなりたかくなります。
なぜかというと、読解力が備わっているからです。
一方、読書をしていない子は、今の学力は、その、評価の数字そのものなので、受験では、伸びても時間が合格に持っていくまでには、どうしても足りなくなります。
アクティブラーニング
国の新指導要領では、このアクティブラーニングを授業に積極的に取り入れる方針ですが、従来の受け身的授業は、私に言わせれば、「詰め込み型教育」で、子供の興味をしっかり引き出し、能動的に学ぶというのは、良い方向性です。
この生徒の興味を、出させるのには、担当教諭のその教科に対する、高い実力が不可欠です。
実際、塾が、世の中で、貢献している部分はこれでもあります。当然ながら学校教育でもそういう方向性に向かえば、喜ばしいことです。
例えば、各教科には、必ず世の中の実用面があります。授業の冒頭「はい、今日は○○ページ開いて」みたいな、授業は、なくし、生きた学問を教えるという原点にもどり、授業を実践すれば、考える力の養成に役立つと思います。
元来、日本において、学問をやる目的は「行動」のためでした。
自ずと、知識をつけ、その知識をもとに考え判断し行動をしました。「知行一致」という考え方です。
先にあげた読書も、「知行一致」の精神で如何に考え行動するかの読書であればいいと思います。
まとめ
今回は、「生きる力としての「考える力」をつけさせる子ども教育とは!」というテーマでお送りしました。
最後までお読みいただきありがとうございました。