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後藤比奈夫氏死去詳細、プロフィールや家族、そして作品など。

「諷詠」名誉主宰の後藤比奈夫氏が死去しました。享年103歳。代表作「東山回して鉾を回しけり」は、物理専攻であったところから、アインシュタインの相対性原理とかコペルニクス的発想などと評されるが、「鉾の前方に立って扇を振る扇方になって、自分が鉾を回しているつもり」と言っていたという長男後藤立夫は寄稿していました。

後藤比奈夫氏

目次

後藤比奈夫氏死去

 

俳誌「諷詠」の名誉主宰で、「神戸新聞文芸」欄で長年選者を務めた俳人の後藤比奈夫氏が6月5日午後11時47分、老衰のため神戸市の病院で死去しました。103歳でした。

通夜、葬儀は親族で執り行う。喪主は長男故立夫氏の妻久子さん、長女岡田方子さん。後日、お別れの会を開く予定。

後藤比奈夫氏

後藤比奈夫氏のプロフィール

 

後藤 比奈夫氏は、1917年(大正6年)の4月23日 生まれで大阪府出身の俳人。自宅は神戸市灘区。

本名は後藤日奈夫。

大阪府西成郡今宮村に俳人後藤 夜半の長男として生まれる。

 

神戸一中、旧制一高を経て、1941年に大阪大学物理学科を卒業。

 

戦時中は陸軍の技術研究所に勤務。

1947年、大阪市にボン電気会社を設立。

1951年、父夜半について俳句の道に入り、夜半の主宰誌「花鳥集」に拠る。「ホトトギス」「玉藻」にも投句し高濱年尾、星野立子に師事。

 

1954年、「花鳥集」が「諷詠」に改題され、その編集兼発行人となる。1955年、波電子工業所を創業、1960年に株式会社となり代表取締役に就任。

1961年「ホトトギス」同人。1976年、夜半の死により「諷詠」主宰を継承。

 

1985年、波電子工業社長を退き俳句一筋となる。

1987年、俳人協会副会長、日本伝統俳句協会顧問、大阪俳人クラブ会長、大阪俳句史研究会代表理事などに就任。

2012年、「諷詠」主宰を息子の立夫に譲り同名誉主宰となる。

2013年現在、俳人協会顧問、日本伝統俳句協会顧問、大阪俳人クラブ顧問、兵庫県俳句協会顧問、大阪俳句史研究会顧問、虚子記念文学館理事、「玉藻」同人会名誉顧問、星野立子賞選考委員などを務めている。

夜半の上方風を受け継ぎつつ、ホトトギス派の信条である客観写生、花鳥諷詠を追求。また物理学で培われた知的な視線、新鮮な題材への取り組み、擬人法の開拓などにおいても評価を得ている。

 

代表句に「東山回して鉾を回しけり」や「虹の足とは不確に美しき」などがある。

後藤比奈夫氏

受賞歴

1989年 に 兵庫県文化賞。

1991年 に 神戸文化賞。

1992年   大阪府文化芸術功労者賞。

2002年  第2回俳句四季大賞(句集『沙羅紅葉』 により)。

2006年  第40回蛇笏賞(句集『めんない千鳥』により)。

2015年   第14回山本健吉賞。

2017年   第32回詩歌文学館賞(句集『白寿』により)。

 

後藤比奈夫氏の家族

後藤比奈夫氏は、夜半氏、比奈夫氏、立夫氏と3代にわたり、俳人の家族です。

また、叔父は、喜多流の能楽師で人間国宝の後藤得三、喜多流十五世宗家の喜多実氏です。

比奈夫氏の姉も喜多流の宗家の内弟子と結婚しています。

 

父は、後藤夜半氏

比奈夫氏の父は、後藤 夜半(1895年 – 1976年 )です。

後藤 夜半は、高浜虚子に師事、「諷詠」を創刊、主宰。「ホトトギス」同人。

少年時代、父の書架にあった「ホトトギス」を読んだことから俳句に興味を持つ。

1923年、「ホトトギス」に初投句し、高浜虚子に師事する。同誌の日野草城、山口誓子、阿波野青畝らと「無名会」を結成。

1928年、「ホトトギス」課題句選者。1931年、「蘆火」を創刊、主宰。1932年、「ホトトギス」同人。1934年、病気のため「蘆火」を終刊。

戦後は俳句専業となり、1948年「花鳥集」を創刊、主宰。1953年、「花鳥集」を「諷詠」に改題。俳人協会名誉会員。神戸俳人協会理事等も努めた。

代表句として「瀧の上に水現れて落ちにけり」が、「滝」の季題の代表句として非常によく知られている。

現在、箕面公園の滝前には同句の句碑が建てられている。

その他、「牡蛎舟へ降りる客追ひ廓者」「あそびめの膝をあてがふ火桶かな」「金魚玉天神祭映りそむ」「底紅の咲く隣にもまなむすめ」などがある。

後藤夜半氏の句を紹介している動画です。


ー       後藤夜半の俳句。1


ー        後藤夜半の俳句。2

 

後藤比奈夫氏の著作でも父夜半氏についての『後藤夜半の百句』が 2014年にふらんす堂から出版されています。

「後藤夜半の百句」

 

長男は、後藤立夫氏

比奈夫氏の長男は、後藤立夫氏です。

後藤立夫氏は、昭和18年7月14日生れ。灘中・灘高を経て東京大学工学部建築学科卒。工学博士。

昭和50年「諷詠」入会・同人。

平成12年「ホトトギス」同人。

 

父の後藤比奈夫氏に受けついて俳誌「諷詠(ふうえい)」を主宰。

 

平成19年新菱冷熱工業(株)専務取締役・新菱エコビジネス(株)社長を退任。

平成24年「諷詠」主宰。日本伝統俳句協会会員・俳人協会名誉会員。

平成28年6月26日肺がんで死去。享年七十四歳。

後藤立夫氏は、父後藤比奈夫氏の代表作「東山回して鉾を回しけり」について、寄稿しています。

東山回して鉾を回しけり

後藤比奈夫
第4句集『花匂ひ』所収。八坂神社に句碑となっている。この句は昭和52年7月の祇園祭吟行の「諷詠写生会」での作。四条烏丸の京都旅行会館が句会場で、私も同行していた。通りでの「辻回し」の写生。青竹を敷き水を撒き、一気に鉾を廻す。父は〈鉾廻すために四辻働ける〉などの句のあと、最後にこの句を作った。
この句は父が物理専攻であったところから、アインシュタインの相対性原理とかコペルニクス的発想などと評されることが多いが、父自身は、「鉾の前方に立って扇を振る扇方になって、自分が鉾を回しているつもり」と言っている。だからこそ「東山回して」と詠むことが出来たのであろう。  30年以上前の句にもかかわらず、いつまでもぴかぴか光る句と思う。この句は父自身が生涯の代表句と主張している。
(後藤 立夫)

引用:社団法人俳人協会 俳句文学館483号より

後藤比奈夫氏の作品

後藤比奈夫氏の作品を収めた句集。

『初心』 1972年、諷詠会

『金泥』 1972年、諷詠会

『祇園守』 1977年、牧羊社

『花匂ひ』 1982年、牧羊社

『花びら柚子』 1987年、角川書店

『紅加茂』 1992年、角川書店

『沙羅紅葉』 2001年、ふらんす堂

『一句好日』 2004年、ふらんす堂

『めんない千鳥』 2005年、ふらんす堂

『心の小窓』 2007年、ふらんす堂

『初東雲』 2009年、ふらんす堂

『残日残照』 2010年、ふらんす堂

『夕映日記』 2013年、ふらんす堂

『白寿』 2016年、ふらんす堂

『花神コレクション 後藤比奈夫』 花神社、1994年

『晴の日も雨の日も―後藤比奈夫慶弔俳句集』 1999年、ふらんす堂

『後藤比奈夫七部集』 2002年、沖積舎

『心の花』 2006年、ふらんす堂 選句集

『後藤比奈夫集成』 2012年、沖積舎

『シリーズ自句自解2ベスト100 後藤比奈夫』 2014年、ふらんす堂

『自筆四季八十句』 2014年、沖積舎

 

まとめ

今回は、「後藤比奈夫氏死去詳細、プロフィールや家族、そして作品など。」というテーマでお送りしました。

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

 

 

 

戦後以降のホトトギス系の俳人の中でも特に目立った活躍を見せている。なお叔父は喜多流の能楽師の後藤得三と喜多実、比奈夫の姉も喜多流の宗家の内弟子と結婚しており、このため比奈夫の句の背景として能楽が言及されることも多い。

103歳。大阪市出身。自宅は神戸市灘区。。

「諷詠」名誉主宰。父は後藤夜半。

 

 

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