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アラン・メリル生い立ち、両親。日本での活動や最近の活動。死去詳細

アラン・メリル生い立ち、日本での活動、ロンドンでの活動や最近の活動。死去詳細について。彼の娘でフォトグラファーのローラ・メリルは、Facebookを通じ「今朝、コロナウイルスが父の命を奪った」と訃報を伝えた。

アラン・メリル

目次

アラン・メリル死去

彼女はギタリスト兼ボーカリストでもあったメリルについて。彼女の父親がニューヨーク市の病院で亡くなったとFacebookの投稿で述べています。

彼女は2分間、別れを告げる時間を与えられたものの、父の状態は落ち着いていたため、まだかすかな望みを抱いていたが、家に戻ったとき亡くなったとの知らせを受けたという。

「どうしてこんなことに? 数週間前、彼のショウに行ったばかりだったのに。ニュー・アルバムのために彼の写真を撮ったばかりだったのに。テキスト交換したばかりだった。彼は“風邪”だろうって軽く考えてた。

私は『ロナ』と 『ゲッチャ』について、数えきれないほど冗談を言ってた…ああ、馬鹿だった」と綴り、「これを真剣に受けとめてくれるよう、皆さんにお願いします」

「死ぬ人たちがいる。自分や家族には関係ないと思ってるでしょ。あるわ。

家にいて、自分のためでないとしても…ほかの人たちのために。父のために」と、注意を促した。

 

80年代「I Love Rock ‘n’ Roll」をカバーし、世界的に大ヒットさせたジョーン・ジェットは、「ロンドンのTVでアローズを見て、あの曲に大興奮したこと、いまだに覚えてる。深い感謝と悲しみと共に、彼の安全な旅立ちを願う」と、追悼している。

 

メリルは70年代半ばに英国でジ・アローズを結成する前、日本に在住し、ミュージシャンとしてはもちろん、モデル、俳優としても活躍していた。

Alan Merrill

「I Love Rock ‘n’ Roll」のソングライター、Alan Merrillがウイルスによる合併症で死亡
Alan Merrillは、コロナウイルスの合併症を経験した後、日曜日の朝に亡くなりました。 69歳だった。

「I Love Rock ‘n’ Roll」はもともとArrowsによってリリースされたもので、「Entertainment Tonight」によると、1975年にMerrillが参加したバンドです。

7年後、ロッカーのジョーン・ジェットとブラックハートがこの曲のバージョンをリリースし、ビルボードチャートで1位になったと、アウトレットは報じた。

「ロンドンでテレビでアローズを見て、私にヒットを叫んだ歌に圧倒されたことを今でも覚えています」とジェットは書いています。 「深い感謝と悲しみをもって、彼に反対側への安全な旅を願っています。」

安らかに眠れ、アラン・メリル。

アラン・メリル

アラン・メリルの生い立ち・両親

アラン・メリルは、1951年(昭和26年)2月19日、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市に生まれる。

 

出生名はアラン・プレストン・サクス (Allan Preston Sachs)、日本でも著名なジャズ・シンガーのヘレン・メリルが母親です。

ヘレン・メリル

 

そして、父親は、サキソフォン/クラリネット奏者のアーロン・サクス (Aaron Sachs) です。

アーロン・サクス

 

アラン・メリルは二人のジャズ・ミュージシャンの息子として生まれた。


ヘレン・メリル

 

アランは、1966年(昭和41年)ころからセミプロとしてのキャリアをミドル・ティーンの頃に開始します。

 

グリニッジ・ヴィレッジの伝説的カフェ「カフェ・ワッ?」(Cafe Wha?) で、ザ・カレイドスコープ(The Kaleidoscope)、ザ・レイン(The Rayne)、 ウォータータワー・ウェストといったバンドと共に演奏をし始めた。

カフェ・ワッ?

カフェ・ワッ?

 

アラン・メリル日本での活動

1968年(昭和43年)、ニューヨークの著名バンドであったザ・レフト・バンク(1966年全米トップ5「愛しのレネ」で知られる)のオーディションを受け、アランは合格するも、ザ・レフト・バンクは間もなく解散した。


“WALK AWAY RENEE” THE LEFT BANKE 1966

 

この当時は、本名のアラン・サクスで活動していた。

その後、アランは来日し、東京を基盤とした活動を行うザ・リードという外国人バンドでRCAレコードからデビューした。

 

アランも後にカヴァーした『悪魔がくれた青いバラ』というヒット・シングルがあるが、2人のメンバーが大麻不法所持で強制送還された為、バンドはすぐに解散となった。


ザ・リードThe Lead/悪魔がくれた青いバラAkuma Ga Kureta Aoi Bara(1968年)

 

同バンド・メンバー、アラン・ヒルとの同名で混乱を避けるために(当時大ファンだったポール・マッカートニーにちなんで)ポールという芸名を使っていた。

1969年(昭和44年)、渡辺プロダクションとのソロ・マネジメント契約を交わし、同プロダクションはアトランティック・レコードと契約、芸名をアラン・サクスからアラン・メリルに変更。

 

ソロ・シンガーとしてのデビューだったが、ロック・パイロットとの共同活動も多く、日劇ウエスタン・カーニバルや日本武道館、帝国劇場、日比谷公園、日本万国博覧会のステージ等にも出演した。

ロック・パイロット

 

1971年(昭和46年)2月、ソロ・アルバム『ひとりぼっちの東京』(Alone In Tokyo) を全曲日本語でレコーディングし、『涙』(かまやつひろし作曲/安井かずみ作詞) がシングル・カットされヒットし、日本において実力派ポップスターとなった。


Alan Merrill, 「ひとりぼっちの東京」より Anata Ga Hoshi アラン・メリル – 1970

 

アランは、TBSテレビの朝の若者番組『ヤング720』(1966年10月31日 – 1971年4月3日)にコーナーを持ってレギュラー出演した。


 ヤング720

 

さらには、日産自動車やJUN、主婦の友、 an・an、non-no、GTジーンズの広告の主演モデルとしても活躍した。

 

又このころ迄には、かまやつひろし、大口広司や安井かずみらと共にレストラン『キャンティ』常連組の一人であったり、GSブーム真っ只中の著名バンド、ミュージシャンらと親睦を深めている。

1971年1月24日、日本武道館で行われた『ザ・タイガース、ビューティフル・コンサート』(解散公演)に於いて冒頭アナウンスを担当した。

 

同年、DENONレーベルから、自作によるアルバム『Merrill 1』(アラン・メリル全作詞作曲パフォーマンス)をリリースした。


 Alan Merrill, Starstruck, 1971 Merrill 1 album

 

1972年(昭和47年)春、ロック・パイロット時代にゲスト参加していた元エモーションの近田春夫、同じく元エモーションの金沢ジュンと共に、ゴジラというスリー・ピース・バンドを結成、セッション等に参加した。

近田春夫

 

ガロのベーシストとして録音に参加したこともある。


ガロ 「学生街の喫茶店」

 

また、アランは日本でのグラム・ロック発祥者であり、その頃結成したバンドがウォッカ・コリンズ (Vodka Collins)で、大口広司、かまやつひろし、横内タケ(1990年代再結成には参加せず、加部正義が加入となっている)をメンバーとした。


“Automatic Pilot” ウォッカ・コリンズ Vodka Collins, live 1972 Japan

 

ウォッカ・コリンズは、1973年(昭和48年)にアルバム『東京 – ニューヨーク』(en:Tokyo-New York)をレコーディングし、東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)から1974年(昭和49年)にリリースされた。


 VODKA COLLINS TOKYO NEWYORK SIDE ONE

 

本作は、1997年9月9日に米国でもCDが再発売された。

また、2016年にアルバム『Pink Soup』が再リリースされ、米国では初めてのCD発売となっている。


Vodka Collins, Pink Soup, Hiroshima 1998

 

帝国劇場や武道館での演奏で活躍し、ザ・タイガースジャクソン5のオープニングも務めた。

ウォッカ・コリンズの歌(唯一2曲の日本語版歌詞を省いて)は全て英語で、全作詞作曲はアランによって手掛けられており、彼自身のリード・ヴォーカルで、ギター、キーボード、ピアノ、ハーモニカ演奏と多才である。

 

同アルバムに挿入された1973年ヒット曲『Sands of Time (en)』(ドラマーの大口広司が日本語翻訳詞をしたヴァージョン)は人気のTVドラマ・シリーズ「前略おふくろ様」の挿入歌として使用された(1975年)。


Vodka Collins – Sands of Time (1973)

 

アランの流暢な日本語の歌唱をお茶の間でも伺えた。

1973年に人気テレビドラマシリーズ『時間ですよ』第66回 – 第95回(1973年2月14日 – 1973年9月5日、TBSテレビ)にロック・バンドのギタリスト役で、堺正章、研ナオコ、かまやつひろし、鈴木ヒロミツらと共演した 。

その後、渡辺プロダクションと契約解除。

アラン・メリルのロンドンでの活動

 

1974年には渡英し、ロンドンへキャリアを移した。

同年、自身のバンドであるThe Arrowsを結成。

 

1975年にリリースされたシングル『アイ・ラヴ・ロックンロール』(アラン・メリル作詞作曲、ヴォーカル、ベース)は、その後1982年に、ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツによるカヴァーが全米ビルボード、ナンバー1を記録する大ヒットとなる。


Arrows, I Love Rock N Roll, Alan Merrill

 

その後もブリトニー・スピアーズを始め、マイリー・サイラスや、最近では Superfly スーパーフライ(アランがギターで参加) 、L’Arc?en?Cielなど、数多くのアーティストがカヴァーしている

アラン・メリルの最近の活動

アラン・メリルの最近の活動は、1998年にソロアルバム『Never Pet A Burning Dog』を発表。


Never Pet A Burning Dog

 

2001年には『A Merrilly Christmas』を発表。


Alan Merrill, Christmas In Love

 

2002年には『Cupid Deranged』を発表。


Arrows, My Last Night With You, Alan Merrill, Cupid Deranged Redux

 

2003年にはソングライターのオーティス・ブラックウェルとアーサー・アレクサンダーへのトリビュート『Double Shot Rocks』をリリース。


ALAN MERRILL feat MARK KNOPFLER – You Better Move On Double -Shot Rocks

 

2004年には『Aleecat』を発表。


Alan Merrill, When The Night Comes, Aleecat

 

2006年には、『At The Candy Shop』を発表。


Alan Merrill, “At The Candy Shop” (1977)

 

ザ・レフト・バンクへのトリビュート『Rive Gauche』(2007年)等をリリースしている。『Alien In Tokyo』の再発売や、EP『Hard Road』、ライヴ盤『The Aleecat, Live In Japan』が2008年にリリースされた。


Alan Merrill, Pretty Ballerina, Rive Gauche, 2007

 

かまやつひろしとは60年代後期以来親交があり、ウォッカ・コリンズ後の近年(2015)もアランの来日ライヴに参加している。

かまやつひろし

 

又、2007年のニューヨーク市のアラン宅での大変カジュアルなセッションが伺える。

アラン・メリルは、バンド形態であったり、またはアコースティックなソロであったり、国際的にソロ・コンサートを継続している。

 

晩年はニューヨーク市在住。

まとめ

今回は、「アラン・メリル生い立ち、両親。日本での活動や最近の活動。死去詳細」というテーマでお送りしました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

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